「エピローグ」
作曲・演奏:真島こころ
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——君の瞳にボクの姿が映る。それは、どんなに幸せなことだろうか。

【エピローグ】

「なあ、頼むよ。教室の掃除、やっておいてくれない?」
「えっ、僕が全部?」

 午後の日差しは心地よく、うとうとしていたときのことだ。ふと耳に届いた声。目をこすって前を向けば軽薄そうな笑みを浮かべたやつが、いかにも気弱そうなメガネくんに絡んでいた。あまり見ない組み合わせだ。これは、暇つぶしになるだろうか? そう思い二人の様子を眺めることにする。

「黒板掃除くらいはやるからさ」
「その」
「なー、いいだろ?」
「だけど」
「なんならゴミ捨てもやっておくし」

 それ、ぜんぶすぐに終わる仕事じゃん。なんて、心の中でツッコミを入れる。

「……えっと」
「頼むよ。今日はどうしても早く帰りたいんだ」
「それなら二人で協力すれば……」
「な、いいだろ?」

 うつむいた眼鏡くんに、拝み倒す軽薄くん。あーあ、カワイソウ。これはメガネくんが押し切られるに一票。見えきった結末だった。次第に興味は薄れていく。つまらない。全然楽しくない。仕事の押しつけなんて、何の面白みのない話題だった。もっと違う何かを期待していたのに。

「うん、わかった」

 へらりと、張り付けたような笑みを見て胸がムカムカした。これ以上視界に入れたくない。そう思い、机の下にもぐった。こんなときは早く忘れてしまうに限る。体を丸めて寝る体勢を取った。ちらりと前を見る。足元だけ見れば、誰もが同じような存在に思えた。差のない世界だ。でも、現実はそうじゃない。ため息をつく。どうしてボクの毎日はこんなにも退屈なのだろう。いっそ退屈で心臓が止まってしまえばいいのに。自分以外の誰かは、生き生きとした日々を送っているように見える。けれど、ボクだけが平坦でうすっぺらな時間の中にいるような気がした。ここから抜け出せる方法を知りたい。窓の外へ飛び出せば、変わるものはあるのだろうか。今日も今日とて、何一つ心躍る出来事には出会えない。

 時計の針がくるりと回る。運のない日だった。放課後、職員室に連行された。ちゃんと授業を聞け、宿題を出せ、せめて席に座れ。おせっきょーはうんざりだ。途中から何を話していたのか覚えていない。聞いていない。ようやく解放されたとき、生徒の気配はどこにもなく、誰もが帰ってしまうような時間まで先生に捕まっていたことを知った。とぼとぼと廊下を歩き、鞄を取りに教室へと戻る。まだ家に帰りたくはない。けれど、これ以上学校にいても楽しいことは見つからないだろう。残念だ。そう思いながら扉を開けようとして、手を止めた。——人がいる。思わず立ち止まった。息を殺して中の様子を伺う。彼は机を持ち上げては、その位置を調整しているようだった。どうしてそんなことをしているのだろうと思った途端、昼間の記憶がよみがえる。そうか、あのメガネくんはまだ掃除をしていたのか。
 なんとなく、目が離せなくなり動向を見守る。そうしているうちに、少しずつ列が整いはじめた。彼は時折息をつき、額の汗をぬぐう。そして机を持ち上げ、その位置を僅かに動かしていた。数分もすれば机の端と端がきっちりとそろう。気がつけば教室の中はいつになく整頓された状態となっていた。彼はそんな教室を一望し、満足そうに笑みを浮かべる。
 どうしてだろう? 純粋にそう思った。今はもう誰もいない。それなら、適当なところで片づけて帰ってしまえばよかったのに。いくら教室が綺麗になったところで、正直気に止める人はいないだろう。明日になればすぐにぐしゃぐしゃになる。彼がこんな時間まで残り、頑張っていたとしてもその苦労を知っているのは本人か、偶然見合わせたボクだけだ。
 バカみたいだと、心の底から思った。どうして誰も見ていないことに対して、そこまで真剣になれるのだろうか。誰も気に留めはしないものに対して、真摯に向き合えるのだろうか。そこにはなんの価値もないというのに。その思考回路は到底理解できそうになかった。だけど、ボクは未だに彼から目を離すことができずにいる。いつもならつまらないと、とうに興味を失ってもいい頃だった。さっさと荷物だけ取って、違う場所に行ってもいいはずだったのに。

 最後までやりきったことを確認した彼は、すみっこに置いてあったぞうきんを手に取った。そして棚を拭きはじめる。うす汚れた布に向けるまなざしがやけに印象的だった。彼の様子をぼんやりと眺める。棚を拭いているときも、掃除道具を片づけるときも、教室の窓を閉めるときも、目をそらさず真っ直ぐに視線を向ける。嫌な顔や疲れた表情は見せない。黙ったまま、真剣に向き合っていた。何が楽しいのか、小さく笑みを浮かべているときもあった。
 彼は変だ。まずそう思った。真面目もいいところだ。ひょっとしたら手を抜くということを知らないのかもしれない。少なくともボクが見ている間はずっと、何に対してもひたむきな姿勢を貫いていた。そのせいだろうか? 彼を眺めているうちに、いつしかその瞳に惹かれていた。じっと見つめる。そうしているうちに、ふと脳裏に浮かんだ想い。それはひらめきと似ていた。

 その瞳は、ボクを映してくれるだろうか?

 瞬間、彼の周りが色鮮やかなものに見えた。目を見開く。髪の毛も、メガネも、腕まくりをしているシャツもすべて、夕日が生み出すオレンジ色のやわらかな光に包まれていた。鼓動が跳ね上がった。鳥肌が立つ。息を呑む。

 期待してもいいのだろうか? そんな想いが湧き上がる。その辺のゴミだって誰かの目には止まる。けれど、ボクは誰にも映らない存在だった。過去も、今も、きっと未来も。ボクはどこにも存在していなかった。ひょっとしたら、ここにいないのかもしれないとさえ思っていた。けれど彼なら、ひょっとしたら。心が震える。誰もが目を向けないものでさえ正面から向き合っている彼ならば、きっと。

 その視界にボクが映ったとしたら、それは、どんなに幸せなことだろうか。

 声をかけよう。話してみたいと思ったのは、ごく自然な流れだった。だけど教室へ一歩踏み出そうとして、肝心なことに気づく。ボクは彼の名前を知らない。他人の名前を気にしたことなんて今までなかった。彼のことはどう呼べばいいのだろうか。やっぱりメガネくん? そのまま過ぎてつまらないとすぐに却下する。真面目そうで、気弱そうで、地味で、メガネをかけている。それだけで想像できるようなものがいい。記憶を呼び起こす。本、テレビ、人の会話。脳内のありとあらゆる引き出しを開ける。そうして、ようやくぴったりな呼び方を見つけた。にんまりと口の両端があがる。よし、決めた。
 今度こそ扉を開き、ためらいなく教室へと踏み込んだ。彼の元へと向かう。こちらに気づいたのか、彼が振り返った。瞳にボクの姿が反射する。その瞬間、白黒だったボクにも色がついたような、そんな気がした。
 ああ、そうだ。そうだった。まだボクは、ここに"存在"している。
 息を吸い込み、口を開いた。

「ねえ、いいんちょ。何してるの?」




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