「Invisible」
作曲・作詞・歌唱:b/MIX:qurter
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——ボクの視界と君の視界は違うんだ。だから何も伝わらない、伝えられない

【7月15日 Invisible】

 ふいに意識が覚醒した。まばたきを数回する。不思議と眠気はない。上半身を起こし、壁にかけられた時計を見る。時刻は5時30分。二度寝をしても良さそうな時間ではあったが、あいにく目が冴えてしまっていた。ベッドから出る。今日は日直だった。今から学校へ行く準備をすれば、7時30分よりも前には到着するだろうか。早めに当番の仕事を終わらせて、それから予習をしてもいい。日直は僕一人だけではなく、吉川くんと一緒だった。ひょっとしたら何かハプニングがあるかもしれない。そう考えるとなんだか楽しくなって、くすりと笑ってしまう。昨日、彼には当番だから早めに学校に来てねと伝えてある。吉川くんは普段から登校時間はまちまちだったが、それでも余裕を持って学校へ来ていた。だから遅刻はしないはずだ。今日は一体どんなことが起きるだろうか。僕は漠然と何か予感めいたものを抱きながら部屋を出た。

 7時20分、学校の正門へと到着する。校舎へ近づけば職員室には電気がついていた。人影は一人、二人ほど。生徒は見かけない。体育館やグラウンドの方からは、運動部のものであろう掛け声がうっすら聞こえた。昇降口はがらんとしている。足音だけがやけに大きく反響した。

 靴をローファーから上履きに変えて、校内へ踏み込む。人の気配がない学校はどこか異空間のように感じた。階段を上り、3階にある教室を目指す。踊り場にある窓からは光が射し込んでいた。切り抜かれた青空。そのまぶしさに目を細める。のんびりと進み、2階へと到着した。教室まであと少し。次の階段へと足をかける。そのとき、僕の耳に物音が届いた。

——ガタン。

 何か物がぶつかったような、落としたり倒れたりしたときのような音だ。そんなに離れてはいないところから聞こえてきた。異変はないかと立ち止まり、辺りを注意深くうかがう。そのときガタンと、またどこかで音がした。2階ではない。もっと上の方からする。階段を見上げた。3階には2年生の教室がある。音の発生源はおそらくそこからだろう。僕は止めていた歩みを再開する。3回目の音が聞こえた。自然と足早になる。妙な胸騒ぎがして、いつしか緊張感に包まれていた。

 3階へとたどり着く。ガタン、ガタン、ガシャン。先ほどよりも激しく、そしてはっきりと音は聞こえた。どこからするのかと顔を動かす。そして息を飲んだ。

——見慣れた場所だった。

 ガタンと、僕を嘲笑うかのように届く音。間違えるはずもない。音の発生源は僕の教室、2年3組からだった。他の教室はどこも扉が閉まっていたが、僕の教室だけは半開きになっている。入り口にはどことなく見覚えのある鞄が落ちていた。嫌な予感がする。音は絶えず聞こえたまま。自分の教室へとゆっくり近づく。足が重い。どうか違っていてほしい。そう願いながら、落ちていた鞄を拾い上げた。黒のシンプルな手持ち鞄。ところどころに傷があり、普段からぞんざいに扱われていることが分かる。その傷の形を、僕は覚えていた。この持ち主を、確かに知っている。半開きになっていたドアから教室を見る。人がいた。教室の中はまるで台風が通り過ぎたあとのような惨状だった。椅子と机が散乱している。ガタン。音がする。人が机を蹴り飛ばしていた。

「……吉川くん」

 呟いた声が震える。声だけではない。体まで震えそうになった。机が蹴られ、そして踏みつけられる姿を目の当たりにする。その異様な光景に恐怖が全身を支配した。

「吉川くん」

 つとめて冷静に、いつも通りに呼びかける。声が上擦らないように注意した。どうかいつものように、楽しそうに君しか言わない呼び名で僕を呼んでほしい。僕なんかが思い浮かばないような突拍子もない理由で、机を蹴っていたと言ってほしい。僕は仕方ないなと呆れながら、でも笑って教室の片付けをするから。だから、返事をして。
 相変わらず音は響く。彼はこちらを見ようともしなかった。執拗に一つの机を攻撃し続けている。かろうじて見えた机の落書きから、あれは吉川くん自身が使っている机だと分かった。

「吉川くん」

 先ほどよりも大きな声で呼びかける。しかし変化は見られない。彼はひっくり返ってしまった机を踏みつける。引き出しの部分がひしゃげていた。尋常じゃない力が込められているのが見て取れる。僕の声は物音で遮られてしまったのだろうか。

「吉川くん!」

 大きく息を吸い、叫ぶように彼の名前を呼んだ。それでも動きは止まらない。僕は手にしていた二つの鞄を放り投げた。足早に彼のもとへと向かう。そして腕を掴んだ。

「吉川くん、ねえ、どうしたの?」

 壊れてしまった人形のように吉川くんは机を踏みつけ続ける。僕の声は全く届いていないようだった。とにかく暴れるのを止めさせなければ。腕をひっぱり、体ごと机から遠ざけようとする。しかしびくともしない。それならと、今度は両手で腕をつかみ、かなりの力を込めてひっぱった。彼の体は揺れ、なすがままに動き、机から離される。そしてぴたりと、ねじが切れたかのように吉川くんは動くのを止めた。

「吉川くん、大丈夫?」

 反応はない。こんなに近くで話しているのに、僕の声は彼には聞こえていないようだった。こちらを見ようともしていない。その事実に心が軋む。彼はただぼんやりと机の方を見ていた。幽鬼、という言葉が浮かぶ。今の吉川くんは、そう表すのがふさわしい状態だった。

「ねえ、本当にどうしちゃったの……?」

 途方に暮れる。一体どうすればいいのだろうか。そう思ったとき、ふと彼の口が動いた。ぼそぼそと、小さく掠れた声がする。はっきりと聞き取ることはできない。注意深くその声へと耳を傾ける。彼は断続的に何かを言っていた。同じ言葉を繰り返している。途切れ途切れに聞こえる音と音を繋ぎ合わせて、内容を推測する。時間とともに耳と頭も音へと順応していった。そしてようやく、僕は彼が何を言っているのか聞き取れた。

「消えてしまえ」

 確かに、吉川くんはそう言った。

「……どういう、こと?」

 僕の問いへ返す答えはない。ただずっと、同じ言葉だけが彼から生み出されていた。

「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」

 繰り返し、繰り返し、止むことなく聞こえてくる。ぞくりとした。得体のしれない恐怖に包まれる。

「吉川くん」

 彼の肩をつかみ、僕の方へと強制的に向き合わせた。けれどまったく目が合わない。一体どこを見ているのだろうか。

「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」
「吉川くん! ねえ、こっちを見て」
「消えてしまえ」「消えろ」「消えろ……」
「お願いだから、僕の話を聞いて」
 
 ぎゅっと掴んでいた肩に力を込めた。どうしてそんなことを言うのだろう。なんでこんな状態になってしまったのだろう。

「消えてしまえ」「消えてしまえばいいのに……」
「ねえ、何を消したいの」
「全部、全部、全部、消えてしまえ」
「だから、それを教えてよ」
「消えてしまえ。消えろ……、消えてなくなれ……」
「それを消せばいいの? そしたら君の気は済むの? ねえ、どうすればいい?」

 突然、吉川くんは言葉を発するのをやめた。ぼんやりと、虚ろな瞳が僕の方を見る。そして再び口を動かした。

「消せるの?」
「……何を」
「ボクを」

 目を見開く。その瞬間、息の仕方を忘れた。腕から力が抜け、彼の肩から僕の手は滑り落ちる。虚脱感に襲われ、立っているのがやっとだった。同じ言葉が返ってくると知りながら、もう一度確認する。

「消したいの?」
「……そう」
「……自分を?」
「……うん」

 がくんと、足から力が抜けた。その場にへたり込む。

「……はは、ははは」

 僕の口からは意味もなく、笑い声が出てくる。何も楽しいことなどないのに、どういうわけか笑いが止まらない。静寂を埋めるかのように声が出る。消すって、吉川くんを? 僕が? それは、どんな悪い冗談だ。

「消えてしまえ」「消えてしまえ」「消えてしまえ」

 再び吉川くんは口を動かし始める。その足もとで僕はうずくまる。しばらくして笑い声は止まった。どうすればいいのだろうと、そればかり考える。人を呼ぶべきだろうか。職員室には先生たちがいる。この異常事態は大人に委ねるべきだろう。僕は報告をするだけでいい。それがきっと最良の方法だ。そうに違いない。顔を上げ、吉川くんの様子を伺う。だけど、心の片隅でこうも思う。先生に報告をしたあと、吉川くんはどうなるのだろう? 教室をめちゃくちゃにして、それから正気を失っていて。僕は明日、また彼と言葉を交わすことができるのだろうか? 表情がごっそりと抜けてしまったそこには、いつもなら楽しげな笑みを浮かんでいることを知っている。もし今ここで、僕が逃げるような真似をしたら、吉川くんはその笑顔を再び僕へと向けてくれるのだろうか。……きっと、それはない。彼はもう二度と、僕へ声をかけることはないだろう。それは予感よりも確信に近かった。身動きが取れないまま、僕はただ吉川くんのズボンの裾を握りしめる。

「……えっ」

 ふいに僕でもなく、吉川くんでもない声が聞こえてきた。教室の扉の方を見る。男子生徒が一人、目を見開いて教室を見渡し、それから僕らを見た。彼と目が合う。

「……木下くん」

 ずいぶんと情けない声が僕から出た。よろよろとその場から立ち上がり彼の元へと向かう。

「……えーっと、大変なところにきちゃったかな?」
「そう、だね」

 改めて僕は教室を見渡す。吉川くんの席を中心に、嵐が生まれていた。これを元の状態に戻すのはきっと一苦労だろう。

「どうしよっか。……先生、呼んでくる?」

 木下くんが気まずそうに問いかける。僕はしばし考え、ゆっくりと首を横に振った。一呼吸する。そして腹をくくった。

「事情はあとでちゃんと説明するから、先生を呼ぶのはちょっと待って欲しい」
「じゃあ、僕はどうしたらいいかな?」
「木下くんには教室の片づけをお願いしたいんだ。このままじゃ、皆びっくりするから」
「和泉くんはどうするの?」
「……僕は、もう少しだけ吉川くんと話がしたい」

 吉川くんを見やる。彼はこちらを気にすることもなく、一人嵐の中心で佇んでいた。生気のない姿に心が痛む。

「分かった、教室は僕がどうにかしておくよ。だから、そっちは任せた」
「……うん」

 木下くんに背を向け、足を動かす。もう教室には居られない。どこかへ別のところへ行かなければ。吉川くんの前に立つと、消えてしまえと言う言葉が聞こえてきた。そっと彼の腕をつかみ、引っ張る。引かれるがまま、容易くその体は動いた。

「吉川くん。移動しよう」

 返事はない。腕をつかんでいない方の手を痛いほどぎゅっと握りしめた。吉川くんを引き連れ、扉へと向かう。重苦しい雰囲気が教室の中に漂っていた。教室を出ようと一歩足を踏み出す。そのとき、僕らの背後から声が聞こえた。

「ねえ! あとでさ、一緒にアイスを食べようよ」

 おどけた様子で、明るい声で、木下くんは笑みを浮かべてそう言った。その言葉に一気に緊張が緩む。涙が出そうになった。

「……うん」
「もちろん、和泉くんのおごりだよ。この教室の片づけをするの、大変なんだからさ」
「いいよ、それくらい」
「あ、そうだ。井上もめざといから混ざってくるだろうし、4人で食べよう」
「……きっと、賑やかだろうね」

 僕と、木下くんと、井上くんと、それから吉川くん。4人で騒ぎながらアイスを食べる姿を想像する。それはとても楽しい未来だと思った。

「絶対にうるさくなるよ。僕が保証する」
「ふふ、楽しみだなぁ」

 教室に残る彼は僕らに手を振る。

「……いってらっしゃい。約束したんだから、守ってよ」
「うん。それじゃあ、またあとで」

 僕も手を振り返し、今度こそ教室から出た。



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