「Invisible」
作曲・作詞・歌唱:b/MIX:qurter
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 勢いのままに飛び出したものの、向かう先はまったく考えていなかった。人がいない場所、誰も入ってこない場所、音を上げても気がつかれない場所。そんな都合のいい場所はないかと考えながら足を動かす。廊下で数人ほどすれ違った。僕らを見て、何かひそひそと囁く姿も目につく。もうそろそろ人がやってくる時間だ。早く、早くどこかへ行かなければ。晒し者になんてなってやるものか。早足で歩けば、窓から差し込む日差しが眩しくて目を細める。僕はその日差しに、ふと足を止めた。窓を見た。正確に言うと、窓の外の青を見た。——そうだ、そうじゃないか! それは目の前に広がっていた霧が晴れていくような心境だった。今の僕らにとって、非常に都合のいい場所が学校にはある。

 目的地を定めた僕は急いでその場所へと向かう。廊下をひたすらに進み、そして突き当たりにある階段を上がってゆく。4階、そして更にその上へ。鍵がかかっている可能性はもちろんあった。だからこれは賭けだ。目の前の錆びついた重い鉄の扉に手をかける。そっと、けれど力を込めて押した。ぎぎぎと、軋む音がする。そして一面の空が目の前に広がった。

「……開いた」

 思わず声が出る。一瞬呆気に取られたが、すぐさま気持ちを切り替える。僕は吉川くんを引き連れると、急いで屋上へと踏み込んだ。そして扉を閉める。あとはもう、人が来ないことを祈るばかり。

 誰にも邪魔をされない、二人きりの空間。僕は吉川くんと向き合う。視線は合わない。そのことがこんなにも苦しいことだとは思わなかった。

「消えてしまえ」

 どこまで彼は自分を否定すればいいのだろう。消滅を願う声に胸が締めつけられる。

「吉川くん、話をしよう。今の僕には何がなんだか分からないんだ」
「……消えてしまいたい」
「お願いだから、そんなこと言わないで」
「なんで消えないんだろう」
「君は消えないよ」
「……もう、何も考えたくない」

 一向に成立しない会話。彼と話すことを選びながらも、この状態ではどうすることもできない。くじけそうだ。それでもきっと何か糸口はあるはずだと信じて話しかける。

「ねえ、吉川くん、どうしたらいい? どうしたら君は元に戻ってくれるのかな?」
「ここにいない。ここにボクはいないんだ」
「そんなことない。ちゃんといるよ」
「……消えてしまえ、全部消えてなくなれ」
「それは無理だよ……」
「消えてしまえ。消えろ……なんでなくならないんだ」
「どんなに言ったって、できないことだからだよ」
「消えない、なくならない……」
「うん……」
「消えない……」
「消えないよ」
「……それなら」

 一瞬途切れた後、それは苦しげに吐き出された。

「アイツさえ……アイツさえいなければよかった」

 酷く哀しげな声。そして初めて聞く、アイツという言葉。

「……アイツって誰かな?」

 慎重に尋ねる。少しだけ見られた変化にはやる気持ちを抑える。そのとき、吉川くんがぼんやりと僕の目を見た。息を飲む。彼はゆっくりとこちらへ手を伸ばしてきた。その行く先は、僕の瞳。指先が徐々に迫ってくる。

「ねえ、そこの君は本当にボクの姿を映してる?」

 問いかけの意味を理解しようと、その手を避けることさえ忘れてしまっていた。指が僕のメガネに当たる。カチリと、爪がレンズをはじいた。そのまましばらく彼はメガネに触れる。やがて、その手はそっとおろされた。

「はは、ははははははっ」

 何がそんなに面白かったのだろうか。突然、吉川くんは笑いだした。あまりの変化に言葉を失い、僕は唖然する。無邪気に笑うその姿は普段通りのようで、けれど決定的に何かが違っていた。ひとしきり笑ったあと、彼は首を傾げてはこう言った。

「そっか。君は、ボクの頭の中にしかいない人だよね」

 ああ、本当に心が折れそうだ。

「ボクのことを見ている人なんて誰もいないのに、幻覚まで見てさ。あは、あははっ、バカみたいだ」
「そんなことない!」

 叫ぶ。肩を掴んで揺さぶる。ぐっと手に力を込めた。僕はここにいる。今、君の目の前にいるのは空想の人物ではない。それを伝えたかった。

「ねえ、ねえ、ねえ、誰がボクの存在を証明してくれるんだ。いないよね、ボクはここにいないんだ」
「違う! 君は今、僕の目の前にいるんだ。証明なら僕がする」
「どうやって?」
「じゃあ、どうすれば君は信じてくれる?」
「ボクにわかるわけないよ」

 あは、あはははと嫌な笑い声が響く。

「あはっ。ああ、そうだ。じゃあさ、君の目を抉り取ってよ。ボクがそれをはめるから。そしたらボクは映っているんでしょ。ちゃんとボクが見えたら信じてあげる」

 唇を噛む。この狂気をどうしたら払えるのだろうか。

「……それは、無理だよ。できっこない」
「じゃあさ、見ているものが違うのにどうして信じろなんていうんだ」
「それは……」

 言葉に詰まった。僕を信じてもらうには、何をすればいいのだろうか

「……目に見えるものしか、吉川くんは信じられないの?」
「そうだよ。だって、誰もボクを見てくれないじゃないか。ボクは誰にも映らない。だから、ボクはここにいないんでしょ」
「違うよ、違うんだ……。僕はちゃんと吉川くんが見えていたよ」
「だってさ、アイツはいつだってボクが見えていないんだ」
「アイツって誰のこと……? 教えて」
「なのにどうしてボクは、ひょっとしたらなんて期待をしたんだろう」
「ねえ、アイツは……」

 答えてくれないのなら、自分から言うしかなかった。なんとなく、僕にはアイツが誰なのか検討がついていた。どうか外れていて欲しいと思いながら、その言葉を口にする。

「アイツは、君の……お父さん?」

 その瞬間、吉川くんから表情が消えた。無機質な瞳に息が苦しくなる。ぼんやりと、彼はどこかを見ていた。

「アイツのこと、ずっとずっと、分かろうとしたんだ……。その目に映っているって信じたかったんだ」
「うん」
「分かりたいって思ったんだ。そうしたらいつかきっと、ボクがそこに映るんだって思っていたんだ」
「……そっか」
「……だけど……だけど!!」

 それは絶叫のようだった。

「叫んだって、怒鳴ったって、殴ったって!! それでもボクはいないんだ!!」

 こんなにも激昂した吉川くんを、僕は初めて見た。

「ボクはいないから、ぶつけることさえできないんだ」
「……うん」
「見ているものが違うから分からない、分かってもらえない。だから、分かりあえない。なのに、なんで、どうして……。どうしてボクは、期待なんかしたんだろう……」

 ぽつりと、今にも消え入りそうな弱々しい声だった。それは彼の心からの嘆きだった。

 ああ、もう、目を逸らすのはやめよう。教えて貰わなくとも分かることはある。この頭は何のためにあるのか。誰かに教えてもらうことは楽だった。考えることをやめて、腐っていくことは簡単だった。答えがそこに転がっているにも関わらず。彼が呟く言葉の端々から、これまで過ごした日々の欠片から、彼がどういう環境にいたのか、推測するのは容易かった。

どうして、彼は人目を気にしないのか。
どうして、彼は甘い物を知らなかったのか。
どうして、彼は痛みを捨ててしまったのか。
どうして、彼の両親は三者面談に来なかったのか。
どうして、彼は僕と出会うまで人形のように表情を失っていたのか。
どうして、彼は人から物を貰ったことがないのか。
どうして、彼は人に物を贈ることをしたことがなかったのか。
どうして、彼は誰かのために何かをすることを知らなかったのか。
どうして、彼には何もなかったのか。
どうして、彼は人との接し方が下手なのか。
どうして、彼はどこかたどたどしく喋るのか?

——ねえ、誰が今まで吉川くんをその目で映して、存在を認識していたの?

 真に向き合っていなかったのは誰だろう。小さな違和感を見過ごしていたのは、気づかないふりをしていたのは……僕だった。本当は何かを抱えていることなんてとっくに分かっていた。けれど考えるのを放棄して、向き合おうともしなかった。僕は僕にとって、都合のいい吉川くんしか見ていなかった。見えていたと、どの口がいうのか。罪悪感に押しつぶされる。なんて、残酷なことをしていたのだろう。こんなにも彼の心が壊れていたなんて知らなかった。そんな言い分けはできない。今に至るまで、気づかないことを選び続けていたのは僕なのだから。
 
 ニュースを見ていれば、陰惨な話は日々飛び込んでくる。中でもとりわけ虐待で子供が死ぬ話は悲惨だった。あまりに気分が悪くなって、チャンネルを変えることなど日常茶飯事だ。小さい頃、僕にとって親が世界の全てだった。だからその親から見放され、惨たらしい仕打ちを受けたらどうすればいいのだろうか。縋るものは親しかいないというのに。ニュースを見ながらそんなことをたまに考える。けれど、それはあくまでテレビの向こう側の話だ。僕にとっては関係のない世界。結局、そこで話は終わる。それでもニュースを見ていれば自然と知識は増えていた。虐待には種類がある。死に至るような、目に見える暴力だけがすべてではない。心に深く傷をつける行為もまた虐待の一種であると知っていた。——例えば、子供の存在を無視することも。

 気がつけば涙が零れていた。僕が泣くのは卑怯だ。目を背け続けていた僕に、泣く資格などないのに。何度も何度も出てくる雫を拭う。それでも止まらない。今まで彼がどんな目に合っていたのか、どうして昨日は正常だったのに、今はこうして狂ってしまっているのか。僕には知るよしもない。けれどきっと、とうの昔に吉川くんの心は壊れていたのだと思う。誰にも気づかれることなく、気にされることもなく、あっけなく、静かに、彼は壊されてしまったのだろう。

「吉川くん」

 無性に名前を呼びたくなった。彼は正常と異常を行ったり来たりしながら日々を重ねていたのだろう。そんな中で僕らは出会った。一体、どんな気持ちで僕と話していたのだろうか。笑っていたのだろうか。

「ボクの視界と君の視界は違うんだ。だから何も伝わらない、伝えられない」

 そのとおりだ。僕の視界と彼の視界は違う。だからこの思いも、この感情も、何も伝わらない、伝えられない。今の吉川くんの世界に僕はいなかった。目の前にいて、向き合いながらも僕らはお互い孤独だった。

「吉川くん」

 もう一度、名前を呼ぶ。彼のために何ができるのだろうか。自問自答するも、答えは明白だった。ただの高校生では、他人である僕では、黙って見ていることしかできない。悔しいなどという気持ちすら湧きあがらない。ただただ無力で、打ちひしがれた。

「……吉川くん」

 手放したくないように、彼の名前を言う。僕ができること、僕が彼にしたいこと。何もないと分かっていながら、みっともなく悪あがきをする。考えろ、考えろ、考えろ。考えなければ絶対に見つからない。ひょっとしたらあるかもしれない手段を必死で探す。歯を食いしばり、思考をめぐらせる。終わらせたくはない。まだ、諦めたくはない。

 やがて僕は、僕にできるたった一つのことを見つけた。

 そっと、肩を掴んでいた手を離す。そして彼の両手を握った。僕と吉川くんで輪を作る。

「ねえ、吉川くん」

 無理矢理、笑顔を浮かべた。嘘の笑みは得意だろう。そう、自分自身に言い聞かせる。情けないことに涙は止まらなかった。だからへんてこりんな表情になっている気がする。それでもかまわない。いっそ笑えるくらいでいい。僕にできることは、きっとこれだけ。

「楽しいことを話そうよ」

 君の過去を変えることはできない。君の目の前にある現実を変えることはできない。君の代わりになってあげられることもできない。でもどうか、孤独な心を変えられるだけの日々は積み重ねていたのだと信じたい。ほんの少しだけでもいい。もう哀しいことはもう考えないで欲しい。考えるなら、楽しいことを考えよう。僕と一緒に。

「ねえ、吉川くん。……どうして君は僕なんかに声をかけてくれたんだろう。僕は未だにそれが分からないんだ」
「消えてしまえ、消えてしまえ。全部なくなれ」
「でもね、君が声をかけてくれなかったら、今こうしてこんなに学校に行くことが楽しいだなんて思わなかったんだよ」
「消えたい、消えてしまえ、もう……疲れた……。なにもほしくない」
「本を投げられたときは、本当にびっくりしたんだからね。でも、あのあと二人で探したのはちょっと楽しかったな。吉川くんはどうだった?」
「なんで、どうして、ボクは存在しないのに意識があるの? 考えたくないのに」
「僕はいちご牛乳好きなんだけど、吉川くんは何が好きかな? そういえば僕、君の好きなものをあまり知らないんだ。だからもっと教えて欲しいな」
「考えても、考えても、考えても、分からないことばかりだ」
「運動会の練習をしたときは転んで痛かったけど、頑張って練習してよかったなって思うんだ。あのときは付き合ってくれてありがとう」
「見ているものが違うから、分かるはずがなかったんだ」
「まさか僕と吉川くんと先生で三者面談をすることになるなんて思ってもいなかったんだけど、先生からためになる話も聞けたし、あの場にいてよかったなって今は思うんだ」
「……分かりあえるはずなんてなかったんだ」
「あ、そうだ。散らかしちゃった教室、木下くんが片づけてくれているんだ。今度アイスをご馳走することになったから吉川くんも一緒に食べようよ」
「苦しい。苦しい……」
「明日は雨なんだって。だから傘は持ってこないとダメだよ? 吉川くんって晴れているときに傘を差したり、雨が降っているときに傘を差さなかったりしているよね。だから僕、傘って必要なんだっけってたまに考えちゃうんだ」
「もういやだ。意識も、感情もいらない」
「僕があげたお土産のストラップ、スマホにつけてくれて嬉しいな。またどこか行くことになったらお土産買ってくるね。今度は何がいいかな?」
「苦しくて、つらいことばかりで、どうにもならなくて。楽しいことなんて……」
「君からもらった睡蓮の花びら、あれはね、本を挟むしおりにしたんだよ。僕の宝物なんだ」
「楽しいことなんて……」
「そうだ、僕が熱を出した日があったよね。あのときは本当にありがとう。実はあのあとね、モモ……僕の妹がね、僕の荷物を持ってきた人が王子様みたいだったって言ってたんだ。吉川くん、確かにかっこいいもんね。いつか妹に吉川くんのこと、ちゃんと紹介したいな。僕の友達だよって」
「……楽しいことは」
「この前、二人して寝っころがって空を見たよね。もうすぐ夏休みだし、今度どこかへまた空を見てみようよ。でも暑いと大変だから、夜はどうかな。星空を見るのって楽しいと思うんだ」
「……楽しいことは、嬉しいことは」
「ねえ、吉川くん」

 冷たかった手のひらには、いつの間にか僕の体温が移っていた。ぎゅっと握りしめる。伝われ。僕がいる。君はいる。このぬくもりは、嘘偽りのない存在の証明。

「僕は君のことが大切なんだ」
「……学校に行けば、教室に行けば」
「君が思っている以上に、ひょっとしたら僕自身が思っていた以上に」
「君は、ボクの頭の中にだけいる人かもしれないけれど」
「君がいる毎日が好きなんだ」
「……それでもボクは、一人ぼっちだと思わなかったんだ」
「僕はもっと、君と話がしたい。これから先も」
「君の瞳は鏡みたいで、そこには確かにボクの姿が映っていたから」
「ねえ、だからさ、楽しいことを話そうよ」
「……いいんちょ」

 吉川くんが僕を見ていた。目が合う。そこにははっきりと、意識があった。彼はどこか不思議そうに首を傾げながら言う。

「ねえ、なんでいいんちょは笑っているのに、泣いているの?」

 ぽつり、一つ雫が落ちる。

「さあ、何でだろうね?」

 涙がコンクリートに滲む。


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