「鏡に潜む虚像」
作曲:三滝航/作詞:蒼風そうか/歌唱:薫篠子
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——誰かに居場所を求めるか、自分の居場所はここだと認めさせるか、それだけなんだ。

【7月4日 鏡に潜む虚像】

 最初に感じたのは違和感だった。妙に体がだるくて暑い。寝汗も酷いことになっていた。やけに喉が渇き、奥の方に引きつるような感覚がある。布団をどけることすら億劫だった。けれど、動かないことには始まらない。無理矢理にでも起き上がろうと僕は腕に力を入れた。壁にかけられた時計を目にすれば、時刻は6時30分を示していた。いい加減部屋から出なければ。

 自室のある二階から一階へと降りていき、洗面所で顔を洗う。いつもはこの行為で目が覚める。けれどなんだか今日はすっきりしない。鏡見れば自分の瞳がやけに潤み、赤くなっていた。目を擦った記憶はない。僕の中にある可能性が浮かんだが、それは無視することにした。

 次はリビングへと移動する。父と母は僕よりも早く朝が始まる。父は椅子に腰をかけ、新聞読んでいた。母はテーブルの上に料理を並べている最中だった。

「父さん、おはようございます」
「ああ」

 父は一瞬だけ僕を見て、その視線を再び新聞へと戻した。

「母さん、おはよう」
「おはよう、司」

 母は動かしていた手を止めて、にこりと微笑む。そして再びてきぱきと朝食の準備を進めていった。机の上に目を向ければ料理は並んでいるが、取り皿となるような食器は置かれていない。

「お皿出すの、手伝うよ」
「あら、ありがとう」

 僕は食器棚から適当な皿を4枚取り出す。父と母と僕、それからもうすぐ起きてくるはずの妹の分だ。1枚の重さはそうでもないが、4つ重なるとそれなりのものになる。僕は皿を慎重に持ち上げる。そのときふいに手から力が抜けた。重なっていた皿がカチャリと音を鳴らす。慌てて力を入れなおした。皿は落下することなく未だに手の中に居続ける。内心とてもひやりとした。ほっと息を吐く。妙な驚きですっかり眠気は吹き飛んでしまっていた。心拍数が上昇しているのを感じる。

「司、どうかしたのかしら?」

 食器棚の前から動かない僕を不思議に思ったのか、母が声をかけてくる。

「ううん、なんでもない」

 僕は気を取りなおして手にした皿を机の上に並べていく。ちょうどそのとき、妹が目をこすりながらリビングへと入ってきた。どうやらまだきちんと目が覚めていないようだ。

「おはようございます……」
「ああ」

 妹には目もくれず、父は相変わらず新聞を読み続けている

「あら、モモ。今日はひとりで起きられたのね」
「うん」
「おはよう、モモ。顔はもう洗った?」
「ちゃんと洗ったよ、お兄ちゃん」

 そう言って妹は僕を見上げた。完全には開いていない目が僕を見つめる。そして次に、どういうわけか彼女は首を傾げた。

「あれ? お兄ちゃん、元気ない?」

 妹の言葉に僕は少しばかり動揺する。妹は案外するどい。

「そうかな? いつも通りだと思うよ」
「えー。うん、うーん……?」
「ほら、早く椅子に座ろう。ごはんを食べなくちゃ」
「はーい」

 僕は早口で露骨に話題を変えると、わしゃわしゃと彼女の頭を撫でた。幼子特有の柔らかな髪の感触が手に残る。妹は素直だ。それ以上は何も言及せず、よいしょと言いながら椅子の上に座った。

 朝食の支度が終わり、家族4人が椅子に座る。今日のメニューはサラダとトーストと目玉焼きだ。僕は早速トーストに手をつける。正確に言うなら、トーストを手に取った。まだ口には運んでいない。どういうわけか食欲が出ないからだ。とりあえず一口かじり、もごもごと口を動かす。中々飲み込めない。口の中の水分がどんどんなくなっていき、喉にひっかかりを覚えた。どうにか僕は一口食べることに成功する。続いてもう一口。食べることが異様に疲れるのは何故だろうか。しばらくトーストと格闘したが、ついに僕は皿の上に戻してしまった。お腹は満たされていないが、そもそもあまり空腹を感じていないので問題ない。そんな僕の様子を見ていたのか、母が心配そうに話しかけてくる。

「司、どうかしたの……?」

 朝食を食べる手を止め、うかがうように尋ねてくる母。その姿に申し訳なさが募った。

「母さん、ごめん。今日は食欲が出なくて。せっかく作ってくれたのに……」
「それは構わないけれど、あなた具合が悪いんじゃないの? お腹でも痛いのかしら」
「そんなことないよ」
「でも、なんだか顔色が悪いわよ」
「気のせいじゃないかな」

 母は人一倍心配性だ。一度スイッチが入るとしばらくは引き下がらないことを僕は知っている。

「でも、やっぱり今日のあなたは少しおかしいわよ」
「大丈夫だから」
「そうだ、お腹の薬があったはずだし、それ飲みましょう」
「薬はいいよ。お腹が痛いわけじゃないし」
「それなら病院へ行きましょう?」
「それもいいから。大丈夫だから」
「でも……」

 押し問答が繰り返される。母を納得させるにはどうしたらいいのだろうか。いつもは静かな朝の食卓も今日は騒がしい。妹はおろおろと僕と母を交互に見ている。これ以上このやり取りを続けるのは不毛だ。けれど僕は折れるつもりはない。駄目押しでもう一度大丈夫だと言おう。そう決めた時だ。

「うるさい、だったらもっとしっかりしろ」

 父が一喝する。途端に部屋の中が静まり返った。妹がびくっと肩を震わせたのが見えた。僕も母も口を閉ざす。

「すみません……」

 母を説得させる言葉ではなく、父に対する謝罪を僕は口にする。僕の言葉を聞いて、父はこれ見よがしに溜息をつく。

「だから、お前は駄目なんだ」

 いつもの父の小言。僕は何も言い返さない。やがて父は立ち上がり、側に置いてあった鞄を持った。慌てて母が立ち上がる。リビングから出ていこうとする父へ、僕は声をかけた。

「いってらっしゃい」
「……ああ」

 父はこちらを見なかった。重苦しい空気だけが残される。

「モモ、ごめんね。お兄ちゃんもそろそろ学校へ行く準備をしなくちゃ」
「うん」

 僕は妹に声をかけるとほとんど手をつけなかった朝食をキッチンへと運び、自分の部屋へと戻る。階段を上るとき、妙に体が重かった。

 パジャマを脱ぎ、ワイシャツへと袖を通す。何もかもが億劫で、すぐ横にあるベッドへとダイブしたくなる欲求が湧き上がる。いつもなら気の引き締まるネクタイを結ぶ行為さえ、今日は息苦しく感じた。僕はどちらかといえば朝は強い方だ。だから、今の自分の状態が眠気によるものではないことは理解している。大人しく休んだ方がいいのだろうかという思いが生まれた。けれど僕は今日一日の予定を考え、それはないなという結論に達した。放課後には図書委員の当番がある。昨日吉川くんと昼休みに勉強を教えるという約束をした。休んだら迷惑をかけてしまう。それに、三時間目の授業には英語の小テストもあったはずだ。できることなら受けておきたい。具合が悪いのは気のせいだろう。そういうことにした。多分、疲れているだけだ。昨日読書に夢中になってしまい、少しだけ寝るのが遅くなってしまったせいもあるのだろう。身支度を整え、玄関へ行けば母親と妹が僕の見送りをしようと待ち構えていた。

「ねえ、お兄ちゃん。おめめが赤いよ」

 妹が心配そうに見上げる。

「いやだ、本当だわ。司、あなたひょっとして熱があるんじゃないの?」

 慌てて母が僕の額へと手を伸ばしてきた。反射的にそれをかわす。

「昨日少し夜更かしをしちゃったんだ。そのせいかも」
「でもあなた、さっきよりよっぽど顔色悪いわよ」
「いつもよりちょっと疲れているだけだから」
「ねえ、やっぱり病院へ行きましょう?」
「だから、それはいいって」
「いいから寝てなさい」
「大丈夫だから」
「学校へはお母さんが電話するから、ね? あなたは何も考えないでいいから」

 再び押し問答が始まる。同時に母が冷静さを欠いていくのが見て取れた。そろそろ話を聞いてくれなくなりそうだ。

「本当に大丈夫だから。母さんに迷惑かけたくないし、僕は平気。ほら、もうすぐモモを小学校へ連れていかなくちゃいけない時間だよ」
「でも……」
「母さんは心配しすぎだって。僕は大丈夫だから。それじゃあ行ってきます」

 逃げるが勝ち、というわけではないが僕はさっさと靴を履くとそのまま外へと踏み出した。後ろで何か母の声がしたが、それは無視することにした。

 思うように体が動かないせいか、普段乗っている電車よりも1本遅いものへと乗り込んだ。学校へ到着したのは朝礼が始まる5分ほど前のことだ。いつもより大分遅い。それにしてもこんなにギリギリの時間で到着するのは珍しいことだった。席につくと吉川くんが僕のところへやってきた。

「いいんちょ、おはよー。こんな時間にくるなんて初めてだね。今日はお休みかと思った」
「……うん、おはよう」

 体がしんどくて、返事がとてもゆっくりなものとなってしまう。

「いいんちょ?」

 吉川くんが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。目と目が合う。

「今日のいいんちょ、変だね」
「……そうかな」
「うん、変」
「そっか、あはは」

 返答に困った僕は、とりあえず笑ってその場をごまかす。

「それが変なんだってば。ねえ、気づいてないの?」
「なにが?」
「多分だけどさ、今のいいんちょって顔色が悪いっていうんだと思う。今日、鏡見た?」
「見たよ。顔洗うしね。でも、よくわかんないや」
「ねね、具合悪い?」
「そんなことないよ」
「……いいんちょは、嘘つきだ」

 むっとしたのか、吉川くんはそう言葉を吐き捨てた。彼の態度と、嘘つきという言葉に僕は微かに胸の痛みを覚える。

「……本当はちょっとだけ、具合が悪いかもしれない。でも平気だよ。きっとそのうち良くなると思うから」

 そのときちょうどチャイムが鳴った。同時に担任の先生が教室へと入ってくる。吉川くんはまだ何か言いたげに僕を見ていた。けれど先生に着席を促され、彼はそのまま自席へと戻っていった。

 朝礼が終わり、授業が始まる。本日の一時間目は数学だ。数学は苦手だなと教科書を開きながら改めて僕は思う。数字の並びがいつも以上に絵のように見えた。あるいは異国語のようにも感じる。おでこのあたりに熱が集まり、思考がどうにもまとまらない。その間に先生が黒板に文字を書き、数式を解説していく。困ったことに何を喋っているのかほとんど頭に入ってこなかった。内容が理解できずに焦ってしまう。その間にもどんどん解説は進んでいく。急いで文字を書こうとするが手に力が入らない。いたずらにノートを汚しているかのような、らくがきのような文字が生まれていく。後から読み返せるのか不安だ。ふいに名前を呼ばれたような気がした。ノートから目を離し、僕は顔を上げる。先生がこちらを見ていた。一体どうかしたのだろうかと疑問に思う。

「和泉、128ページの文章題1問目だ」
「……えっ」

 いつの間にか僕はクラス中の視線を集めていた。どうやら指されていたらしい。反射的に立ち上がって、教科書へ目を落とす。最後に見たときよりもページが進んでいた。慌てて教科書をめくり、ようやく問題を見つける。駄目だ、ぱっと見て答えられるような内容ではない。どうすればいいのだろうかと頭が真っ白になる。そのまま素直に分かりませんと言えばいいだけなのに、何故か言葉が詰まって出てこない。教室の中の沈黙が痛い。

「はいはいはーい!」

 この静寂を破ったのはやけに明るい声だった。その声の主へと僕は目を向ける。吉川くんが元気いっぱいに手を挙げていた。

「吉川、お前さんは指していないんだが」
「ボク、その答え分かるよ。63でしょ、せんせー」
「はぁ……」

 先生は頭を掻きむしったあと、深くため息をついた。そして投げやりに言う。

「正解だ、正解」
「やったー!」
「まあ、いいだろう。すまんな、和泉。もう席についていいぞ」
「……あ、はい」

 呆気に取られているうちに事が進み、そして終わってしまった。茫然としたまま僕は先生に促されてゆっくりと着席する。

「……和泉、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

 今日何度目かの問いかけだ。これまでと同じように僕は答える。

「大丈夫です」
「それならいいんだが。あまりぼーっとしないように」
「はい、すみません」

 そう言いながら、僕は自分の心がどんどん冷たくなっていくのを感じた。情けない。そんな想いが僕の中を支配した。数学は苦手だが、こんなにもできないものだったのかと思う。体調不良を理由にはしたくない。話を理解できない、すぐに答えることができない僕が悪い。お前は駄目なんだ、と言う父の言葉が蘇る。そうだ、僕はもっと頑張らなくてはならない。先ほどよりもずっと集中して僕は授業を聞く。内容を無理矢理頭の中に叩き込む。それでも内容が頭に入ってこないのはどうしてだろうか。一時間目、二時間目と同じようなことを繰り返しながら、時間は流れていく。



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