「アクアリウムの向こう側」
作曲・造語作詞・歌唱:Yuria Miyazono/日本語作詞:蒼風そうか
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——触れられない透明な境界の向こう側。限られた世界で自由に、ふわり、落ちてゆく。

【6月16日 アクアリウムの向こう側】

 眩しい。朦朧とする意識の中、最初に思ったのはそんなこと。目を閉じているのに目の前が白く感じる。重たい瞼をこじ開けてみれば、カーテンの隙間から漏れた光がちょうど顔にあたっていた。確かにこれじゃあ眩しい訳だ。気怠い体をどうにか起こし、枕元にあった携帯電話を開いて時刻を確認する。午前8時28分。はあ、と大きく息をついて携帯を閉じる。いつもよりは遅い起床。けれど、もう少しだけ惰眠を貪っておきたい気持ちもある。どうしようかと一瞬迷ったが、僕は甘い誘惑を振り切るようにベッドから降りた。本日は日曜日。予定は特になし。読書か勉強か、それとも町の本屋へ行こうか。そんなことを考えながら部屋を出た。

 階段を降りている最中、聞こえてきたのは耳が痛くなるような甲高い泣き声。途端に胸の奥がずっしりと重くなるのが分かった。久しぶりだな、と思う。階段を降りきったところでちょうどリビングの扉が開き、父が出てきた。父はかっちりとスーツを着込んでいる。きっとこれから会社へ行くのだろう。父が日曜日でも会社へ行くのはいつものことだ。別に珍しくはない。ただ、今日は眉間に皺が寄り、見るからに機嫌が悪そうではあった。扉が開いたことで、いっそう泣き声は大きく聞こえてくる。

「おはよう、ございます……。いってらっしゃい」
「……ああ」

 目が合ったのは本当に一瞬だけ。父は僕を一瞥すると玄関へと歩いていく。その後ろを慌ただしくリビングから出てきた母が追いかけた。

「あら、司。おはよう」
「おはよう、母さん」

 母は僕を見て微笑むと急いで玄関へと向かう。父と母は一言二言やり取りをし、それからすぐに父は外へと出て行った。ガタン、と重い扉が閉まる。まるで嵐が去ったかのようだと僕は思った。少しだけほっとする。

「お父さん、今日遅くなるみたい」
「そう」

 いつものことだ。早く帰って来ることの方が珍しい。なんの感慨もなく僕は母に返事をする。扉が開きっぱなしのリビングからはまだ泣き声がしていた。ただ、流石に疲れてきたのか音量は少し下がっている。時折鼻をすする音が混じっていた。

「桃花がね、水族館に行きたかったみたいでね……」
「父さん、時間がない、みたいなことを言ったのかな」
「あたり。今日はちょっと桃花も引き下がらなくてね。お父さん、怒っちゃった」
「うん、なんとなくそんな気がしてた」
「お母さんもね、午後から町内会の方に顔を出さなくちゃいけないから余計に困っちゃって」
「そっか。分かった」

 概ね想像通りのことが起きていたようだ。僕は妹の姿を思い浮かべて苦笑する。きっと今、目を真っ赤にしているに違いない。仕方ないと、可愛い妹のために僕は頭の中で今日の予定を組み替える。僕は兄であり、そして妹の泣き顔よりも笑顔が見たいと思う性格だった。母と二人、リビングへと移動すれば思い描いた通りうさぎのように真っ赤な目をした桃花が僕を出迎えた。

「お兄ちゃん……」

 僕を見るなり桃花の目元にはみるみる涙が溜まってくる。桃花はその場から駆け出すと、僕の足元に抱き着いてきた。抱き着く、というよりもタックルに近い。加減を知らない8歳児のタックルは案外強烈で、僕は少しだけよろめいてしまった。

「モモ、どうしたの? 何が悲しかったの?」

 幼子特融の柔らかな髪を僕は撫でる。足元からはくぐもった泣き声が聞こえてきた。涙も鼻水も僕のパジャマに押し付けて、桃花は泣く。自分のパジャマがぐしゃぐしゃになっていくのを感じながら、僕は辛抱強く桃花が話し出すのを待った。

「あのね、水族館、いきたかった」
「うん」
「おとうさん、時間ないって」
「うん」
「いつも、また今度、とかそのうちって」
「そうだね」

 僕は自分が桃花くらいの歳だった頃を思い出す。何年経っても父は変わらない。

「ねえ、お兄ちゃん。また今度っていつ?」
「……いつだろうね」

 先送りにした約束はいつだって破られるものだったし、今度もそのうちもなかった。僕は桃花にそれを伝えない。言ったらきっと泣いてしまうから。けれどいつか、僕が諦めてしまったように桃花もそのうち何も言わなくなるのだろう。今はまだ、そうではないみたいだけど。

「モモね、今度って、いつなのって聞いたら、お父さん……怒って……」

 父に怒鳴られたことを思い出したのか、桃花は嗚咽を漏らす。僕はもう慣れてしまったけれど、やっぱり大きな声で怒鳴られるのは怖いに決まっている。桃花の頭を撫でながら、僕は彼女が元気になる魔法を唱えることにした。

「よし、じゃあ今日はお兄ちゃんと一緒に水族館に行こうか?」
「……ホント?」

 桃花が顔をあげて僕を見た。びっくりしたのか、涙は引っ込んでしまっている。

「本当だよ。お兄ちゃんでよければ一緒に行こう」
「いいの?」
「うん」
「ホントにホントに、いいの? お兄ちゃん、お勉強はいいの?」
「大丈夫だよ。それにお兄ちゃんも、ちょっと水族館に行ってみたくなったんだ。だから、一緒に行こう?」
「……うん!!」

 さっき泣いていた子はどこへ行ってしまったのだろうか。みるみる桃花が笑顔になる。どうやら僕は無事に妹の笑顔を取り戻すことができたようだ。こんな笑顔が見られるのなら、水族館へ行くのも悪くないと思う。桃花は僕の足元から離れ、事の成り行きを見守っていた母の方へと走り寄る。水族館へ行くことを報告している姿は本当に嬉しそうだった。そんな桃花の姿を見ながら、僕はふと物思いにふける。そういえば、もうずいぶんと水族館に行ってないような気がした。そんなに頻繁に行く場所ではないが、それでも最後に行ったのは一体いつだろうか。学校の行事で行ったのかもしれないし、ひょっとしたら桃花が生まれる前、珍しく家族三人で出かけたときかもしれない。記憶の中でぼんやりと浮かぶブルー。巨大な水槽を前に、幼い僕は何を考えていたのだろうか。ほんの少しだけ湧き上がる感傷が一体何なのか分からないまま、僕は僕自身から目を背けた。



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