「Exception e」
作詞・作曲:蒼風そうか/編曲:みなづき/英訳:薫篠子/歌唱:8/MIX:Studio KPP
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——悲しみは石ころのようにどこにでも落ちていて、何度も躓いて転ぶんだ。

【5月29日 Exception e】

 シャープペンシルを動かせば、しゃかしゃかと紙の上を滑る音が聞こえてくる。それほどまでに図書室の中は静かだった。多分、今この部屋にいるのは僕一人だけだろう。図書委員の人も見かけない。時刻は午後4時過ぎ。今日は午前の授業でおしまいだった。僕はさっきから図書室に籠り、明日提出期限である宿題のプリントを解いている最中だ。

「はあ……」

 しかし、どうにも集中できないでいた。プリントの内容は古文だが、全然頭に文章が入ってこない。そのせいかシャープペンシルは少し動いては止まり、また動いては止まるということを繰り返していた。宿題の進み具合は芳しくない。原因は分かっていた。僕は30分前のやり取りを思い返し、途端に憂鬱になった。現実逃避をするかのように、宿題を投げ出し机の上に顔を伏せる。もやもやとした心は未だ晴れない。

 それは今日の午後3時頃のこと。僕の隣には、いつもならここにはいないはずの人がいた。それが妙に落ち着かない。当の本人はどこか楽しそうに周りをきょろきょろと見て、時々感想や疑問を僕に投げ掛けてくるが。僕は少し緊張して教室の扉をノックした。

「どうぞー」

 中からは最近ようやく聞き慣れてきた、少し低めの男性の声がする。

「失礼します」

 普段自分の教室へ入るときには使わない言葉をわざわざ使い、僕は目の前の扉を開けた。教室内はほとんどの机が後ろ側に寄せられ、4つだけがぽつりと開けられた空間に居座っている。四角形に並べられたその1つには僕より一回り年上の男性が一人、ゆるく笑みを浮かべて座っていた。彼が今の担任の先生だ。僕のすぐ後ろにいた母がこんにちは、と挨拶をする。

「どうぞ、お座りください」

 そう言われ、母は先生の正面の席へと座った。僕もそんな母の隣へ腰をかける。今週1週間、全学年で三者面談が行われていた。僕の順番は本日5月29日の午後3時から。目の前に座る先生は数学を教えていて、普段はもう少し飄々とした雰囲気を纏っているが、今日はいつもより真面目に見えた。

「お忙しいところ、わざわざお越し下さりありがとうございます」

 こうして決まり文句と共に僕の面談は開始した。

 しばらくは当たり障りのない会話が続いた。面談は順調に進行し、話題は日々の生活、成績、そして進路希望へと移り変わる。ここで先生は一枚の紙を取り出し、僕と母に提示した。

「進学、ということだが間違いないな?」

 書類を見ながら先生が言う。それは以前、僕が提出した進路希望調査書だった。そこには就職か進学か、大きく二つの項目があり、どちらかに丸をつけるというものだった。僕が提出したものには進学の部分に丸がついている。

「はい」
「そうだな。そろそろ目標を絞ってもいい時期だ。具体的な大学名、とまでは言わないが学部、それから国立か私立かくらいは考えておくように——」
「あら、司。あなた進学希望先を書かなかったの? ほら、ここに書く場所があるじゃない」

 突然口を挟んだ母は、書類のとある部分を指差した。そこは志望校記載欄。

「……周りに聞いたら書いている人少なかったし、直接先生に言えばいいかなと思って」
「ダメよ、大事なことはちゃんと書かないと」

 仕方ないわね、と母は苦笑する。

「おや、志望校はもう決まっているんですか?」
「ええ、そうなんです。××大学の経済学部が第一志望なんですよ」

 母が同意を求める視線を僕に投げ掛けてきたので、合わせるように頷く。

「そうだったのか?」

 先生が僕を見た。思わず目を伏せてしまう。正直に言うと、気まずいような、後ろめたいような気持ちが僕の中にあった。けれど無言のままでいる訳にもいかず、そのままの状態で僕は頷く。

「……はい、そうです。そこ、父さんの母校で、色々学ぶにはとてもいい環境だからって聞いたので」

 こういうとき、自分は嘘つきだなと思う。少しの間僕は先生の視線を感じていたが、やがて話題は進む。

「そうか。……今のまま順調に勉強していけば、無理のないところだろう。まだ努力は必要だが、このまま油断せずに頑張れ」
「分かりました。ありがとうございます」
「頑張ってね。お母さん、あなたのこと信じているから」

 そう言って母は無邪気に笑う。その笑みにどこか息苦しさを感じながら、僕はその後も愛想笑いをしつつ淡々と先生や母の質問に答えていく。やがて終了時刻を迎え、僕の面談は無難に終わった。

 思い返せば返すほど、じんわりと滲むように苦い感情が蘇る。伏せていた顔をあげ、邪念を振り払うように軽く頭を振った。正直、進路なんてどうしたいのか分からない。とにかく毎日何事もなく終えるために、必死なって行動していた。やるべきことはやったか、忘れていることはないか、間違ったことはしていないか。それだけで僕の両手はいっぱいいっぱいだ。この状態で、どうしたら将来のことなんて考えられるのだろう。

 面談時に告げた大学は、父が行けと言うから目指すだけに過ぎない。そこに自分の意思は存在していない。少し前、父へ志望校の話題を持ち出したときのことを僕は思い返す。大学へ進学はしたいけど、行きたいところはまだ決まっていない。僕はそう父に告げるつもりだった。だから進路、という言葉を言った直後、父から一言大学名と学部を告げられたとき、僕は全てを察して何も言えなくなってしまった。——どうやらそこへ行く以外に、僕に選択肢がないらしい。父は口答えは許さないという雰囲気をまとい、それ以外何も言葉を発しなかった。そして僕には父に反論するだけの意思も、意欲も持っていなかった。だからただ一言、分かりました、と返事をした。父との会話はそれで終わった。

 はあ、と溜息がこぼれる。母親の「信じているから」という言葉も僕にとっては酷く重い。信じている、とは何を信じているのだろう。僕が期待を裏切らないということだろうか。だとしたら、もしも指定された道と違う道を選びたいと僕が言ったとき、両親はどう思うのだろう。怒る? それとも呆れる? そこまで考えて、僕は自分を嗤った。やりたいことすら定めていないのに、何を考えているのだろう。

 いい加減止めようと、僕はこの話題を頭から追い出す。不毛なことを延々考え続けているよりも、今は目の前の宿題に専念することが優先だ。僕はようやく放り投げていた宿題の続きを再開した。宿題に出されたプリントは全部で2枚あり、ちょうどあと1問で1枚目のプリントが終わるというところだった。意識を集中し、残り1問をさっさと終わらせることにする。
 どうやら気持ちを切り替えた直後は、案外集中できるらしい。あっさりと最後の1問が解き終わる。この調子で続けていこうと、解き終わったプリントを折りたたんだとき、僕はおかしなことに気づいた。1枚目のプリントの下にあると思っていた、2枚目のプリントがない。途端に慌てて鞄の中をひっくり返す。がさごそとポケットから鞄の底まで確認してみるが、探しているプリントはない。それならばと、教科書やノートに挟まっていないか1冊1冊ぱらぱらとめくってみる。しかしそれも空振りに終わった。もう一度鞄の中を探してみるが、一向に見つかる気配はない。どこにあるのだろうか、と今度は落ち着いて考えてみた。頭に浮かんだのは教室の机の中。怪しい、いや、思い返せば返すほどその可能性は高い。……なんで置いてきたのだろう、と過去の自分を僕は少し恨んだ。宿題の期限は明日までだ。朝早くに来て解くという手もあるが、切羽詰ってやるよりもやっぱり余裕を持ってやりたいと思う。仕方ないと、僕は教室へ戻ることを決めた。まだ三者面談の時間中だが、入れ替わり時にさっさと取ってしまえば問題ないだろう。それくらい許されるはずだ。そう考え、僕はお財布だけポケットに入れて、席を立った。



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